大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

神戸地方裁判所姫路支部 平成4年(ワ)511号 判決

主文

一  被告乙山松夫は、原告ら各自に対し、それぞれ金三一九四万二八八六円及びこれに対する平成三年七月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告姫路市は、原告ら各自に対し、それぞれ金六〇八万八五七七円及びこれに対する平成三年七月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、原告らと被告乙山松夫との間に生じた分は被告乙山松夫の負担とし、原告らと被告姫路市に生じた分は、これを四分し、その一を被告姫路市の負担とし、その余を原告らの負担とする。

五  この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。

理由

第一  本件監禁致死に関する事情等

一  請求原因1項の、被告乙山の「風の子学園」の経営、被告姫路市の丙川中学校、愛護センターの設置・管理、原告太郎と同花子が一郎の父母で、一郎が風の子学園で死亡したことは、被告姫路市は争っておらず、被告乙山も弁論の全趣旨に鑑み争っていないと認められ、また、風の子学園が、登校拒否、情緒障害等の問題を有する児童等の矯正施設と称していたことは後記のとおりであり、一郎の死亡日が平成三年七月二八日であることは、《証拠略》により認められる。

二  請求原因2、3項の、一郎に対する被告乙山の虐待行為及び監禁致死の事実、すなわち、被告乙山が平成三年五月二日、一郎を、勝手に電話した罰と称して、同日から同月一二日まで貨物用鉄製コンテナに監禁し、その間、同月六日朝に粥を、同月九日に酢の物を、同月一〇日に粥を与えただけであること、同月一五日から同月一七日の朝まで、所要で広島市所在の自宅に帰宅し、風の子学園を留守にするのに、監督する職員がいなかったことから脱走防止のため、まったく食事を与えないで監禁したこと、逃亡を図った罰として、六月一五日から同月三〇日までの一六日間、飼料小屋の中に手足を鎖でつないで監禁し、この間、一日一回程度、少量のパン、梅干し一個、少量の水、麦茶しか与えなかったこと、七月二八日、一郎が煙草を見つけて喫煙するように仕向けたうえ、煙草を吸ったことを理由に、一緒に喫煙したもう一名の園生とともに、一郎の手首にひも付き手錠をかけて施錠したコンテナに監禁したこと、当日の福山測候所における最高気温が三三・八度で、一郎は、脱水状態に基づく熱射病で、午後八時ころ死亡したこと(監禁された他の園生も午後三時ころ死亡した)は、《証拠略》により認められる。

被告乙山は、いわば罠をかけて死亡の原因となった一郎のコンテナへの監禁を行い、さらに、後記のとおり、原告太郎に一郎退園について誓約書の提出を求める等の強硬な態度をとったのであるが、その動機について、被告乙山本人尋問の結果及び刑事事件における被告乙山の供述調書等において、自分の了承なく退園を決めたことに対する反発からだとか、一郎の退園により他の園生も退園することになりそうなので退園を阻止したかったとか、退園後に風の子学園の評判を落とすようなことを言われるのを阻止したかったので誓約書の提出を求めたとか述べている。おそらく、これが渾然一体となったものであったと推認される。

第二  被告乙山の責任について

一  第一項において説示したとおり、死亡の原因となった被告乙山による一郎のコンテナへの監禁は、一郎にわざわざ罠をかけて行った陰湿なものであるうえ、後記のとおり、前日、原告らが一郎の退園を求めたのに、被告乙山は、一郎の連れ戻しを拒否し、原告らが一郎がコンテナへ監禁されていることを偶然に知った後も、根拠もないのに、身に危険はない等と言って、原告らを安心させて引き取らせている。

《証拠略》によれば、一郎は口から血を吐いて死亡していたのであり、コンテナの中で一郎が受けた恐怖、脱水状態に基づく熱射病による苦痛が想像を越えるものであったことは原告らの主張するとおりである。

二  刑事事件における被告乙山の供述調書等、上申書、本人尋問において、被告乙山は、原告太郎から一郎にある程度の懲罰を課すことは容認されていたとか、一郎から暴力を振るわれる恐れがあってやむを得ず監禁したとの趣旨を述べている。

しかし、死亡の原因となったコンテナへの監禁は、被告乙山の右弁解とはまったく無縁であることは明らかである。また、以前の行為も、所要のため外出する際にも監禁し、監禁中、食事を与えなかったりするなど、教育のため厳しく対処するといったこととは無縁な、自分の都合だけのものがある。

一郎から暴力を振るわれる恐れがあったとの点についていえば、入園当日に一郎を監禁していること、右各証拠によれば一郎はやや小柄な体格で、被告乙山の残虐な行為で体力を低下させていたのであって、右弁解は採用できず、同被告が一郎に対して過酷で残忍な対応をしたことから、復讐を受けるという被害意識を持つに至ったに過ぎないというべきである。

一郎の死は前述のとおり無惨なものであり、他方、後記のとおり、原告らは、風の子学園の実態を知らずに、被告乙山が一郎を立ち直させてくれると信じて、被告乙山の要求した四か月分の入園料等、療養費一月分、寄付金の合計三三万五〇〇〇円を支払って、一郎を被告乙山に託したのである。

これら事情からすると、一郎死亡の原因となった監禁につき、被告乙山の責任を軽減させる事情はまったくない。

なお、入園直後から、死亡の原因となったコンテナへの監禁までになされた前記虐待行為には、当然に、不法行為に該当するものがある一方、一郎を厳しくしつけて貰いたいとの原告らの意向に添った可能性のある、不法行為が直ちに成立するかについて微妙な行為も存在する。しかし、これら虐待行為の発展として、施錠したコンテナへの監禁、そして「死」という究極の結果が生じたもので、原告らも、専ら、この究極の結果についての賠償を求めている。

そこで、これら虐待行為については、個々に不法行為の成否を検討することなく、一郎の死亡による損害賠償の算定において考慮することとする。

三  よって、被告乙山は、不法行為責任に基き、一郎が死亡するまでに受けた苦痛と死亡による損害の全額について賠償する責任があるところ、その損害額の算定は次のとおりである。

1  一郎の慰謝料

第一で認定した風の子学園における一郎の処遇、特に飼料小屋やコンテナへの監禁の態様、期間、動機、死亡に至る経過、一郎の年齢その他一切を考慮すると、一郎が風の子学園で身体的、精神的苦痛を受けて死亡したことに対する慰謝料は三〇〇〇万円を下回ることはない。

2  逸失利益

一郎は、本件当時、満一四歳の健康な男子であったから、死亡しなければ、通常満一八歳から満六七歳まで就労可能で、この間、少なくとも平成二年賃金センサス産業計・企業規模計・男子労働者、新高卒の一八歳ないし一九歳の平均給与額である年額二一七万四〇〇〇円相当を得ることができたものと推認できる。

右年収をもとに、この間の生活費として五割を控除し、中間利息年五パーセントを新ホフマン方式により控除して逸失利益の現価を算出すると、原告主張のとおりその額は二三八八万五七七三円となる。

3  相続

原告両名は、一郎の両親として、同人が被告乙山に対して有する損害賠償請求権の各二分の一を相続した。したがって、原告らは、被告乙山に対する前記1、2の合計額の二分の一である二六九四万二八八六円ずつ(一円未満切り捨て)の損害賠償請求権を承継した。

4  原告らの慰謝料

一郎の死亡による原告両名の精神的苦痛に対する慰謝料としては、各原告につきそれぞれ三〇〇万円が相当と認める。

5  弁護士費用

本件事案の内容、被告乙山の審理に対する対応及び認容額に照らすと、被告乙山の不法行為と因果関係のある弁護士費用は、原告両名につき各二〇〇万円が相当である。

6  以上の合計額は、各原告につき、それぞれ三一九四万二八八六円となる。

第三  被告姫路市の責任について

(請求原因5(一)の主張について)

一  原告らの主張は、丙川中学校と被告乙山との間に、一郎に対する生活指導という学校教育活動を目的とする委託契約が成立し、被告乙山は国家賠償法上の公務員であったと解されるから、被告姫路市は国家賠償法一条一項により損害賠償責任があるというものである。

しかし、丙川中学校や愛護センターには、そもそも、生徒の施設への入所を決定する法的権限はなく、入園は原告両名の意思に基づくと認められるので、原告らのこの主張は採用できない。

二  すなわち、争いのない事実、《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

1  一郎は、平成元年四月、丙川中学校に入学したが、中学二年となった平成二年頃から、欠席、欠課(教室から抜け出して授業をさぼる、いわゆるエスケイプ)が多くなり、問題行動を起こす一〇名ほどのグループに属して、喫煙、シンナー吸引、小学校や工場へ侵入しての落書き、火遊び、他校生との諍いなどの非行を繰り返すようになり、同年六月と夏休みには家出もした。

原告太郎は、一郎の教育については原告花子任せにしてきたが、平成二年秋ころから積極的に関わるようになり、一郎の同級生の父親の呼びかけた「親の会」に参加し、親子で集まって子供の言い分を聞いたり、服装を直す約束をさせたりしたが、一郎は、平成三年三月初めに担任の教師に暴力を振い、三年生となった四月からは、ほとんど授業に出席しなくなった。

2  丙川中学校の生徒指導担当である吉川教諭は、かねてから愛護センターの門田指導主事と接触を持ち、同人から西の方に、問題行動を起こす生徒のためのよい施設があると聞いていた(門田指導主事は風の子学園をそのように評価し、吉川教諭にその旨話したのである。)。

吉川教諭は、四月一一日、校内を巡回していた際、授業をさぼってグラウンドにいた一郎及びその同級生である丁原春夫と話し合う機会をもったのであるが、一郎から家庭が面白くないと聞き、門田指導主事から聞いた施設を思い出し、外から家庭を見直せば家庭の有り難みが分かるのではないか、よい施設があるとの話をした。一郎は、吉川教諭の話に興味を持ち、放課後に吉川教諭の許へ来て、くわしい様子を尋ね、さらに、帰宅後、そのことを父親の原告太郎に話した。

原告太郎は、翌日、吉川教諭を訪ねたが、同教諭は施設について詳しく知らなかったので、原告太郎を愛護センターに案内し、門田指導主事に引き合わせた。

3  愛護センターは、姫路市立少年愛護センター条例に基づき、少年補導活動を総合的に推進し、少年の非行を防止するとともに、その健全な育成を図るために設置され、問題少年及び少年非行集団の早期発見、早期補導及び情報、資料の整備に関すること、少年の非行防止に関すること、その他必要と認める事業を行い、相談活動、補導活動、啓発広報事業を主な業務としている(《証拠略》の愛護センター要覧、姫路市立愛護センター条例等の写し)。

愛護センターでは、生徒や保護者からの相談を受けるほか、教師が愛護センターに同行した生徒に対して指導もしていたが、相談活動の中で、生徒やその保護者に対し、民間の私塾・施設を紹介することもしていた。

愛護センターにおいて、丙川中学校関係の相談等は、主に門田指導主事が担当しており、同人は、公務として富山県の施設、京都府の青雲塾、香川県の喝破道場及び風の子学園へ出張して視察し、吉川教諭に、風の子学園をよい施設だとの話をした。

4  門田指導主事は、吉川教諭に伴われてきた原告太郎に、経験上、私塾に行った子供は立ち直りが早いと述べて教護院及び私的な施設について説明し、二、三の施設を紹介したが、風の子学園についてはパンフレットを見せ、費用等についても詳しく説明し、自分も視察したが、営利目的ではなく園長は教育熱心な人で、環境も非常にいいとの話をした。

門田指導主事の説明を聞き、原告太郎は、一度下見をすることとし、同主事に被告乙山と連絡して貰って日取りを決め、同月一八日に一人で風の子学園を訪れた。

原告太郎が訪問した日は風雨が強かったことから、同原告は施設を見学することはせず、もっぱら食堂で被告乙山の説明を聞いたのであるが、門田指導主事の好意的な説明もあって、被告乙山に、穏やかで教育熱心な人物だとの印象を持ち、その日に、一郎を五月二日に入園させることを決め、帰姫後、門田指導主事にその旨を報告し、同月二四日、被告乙山に、「入園料」五万円、「施設管理費」一五万円、「預託保証金」三万円と、「療養費」一月分一〇万五〇〇〇円、「寄付金」一万円の合計三三万五〇〇〇円を送金した。

5  坂口校長は、一郎の風の子学園在園中、丙川中学校に出席扱いとする決定をしたが、それは、風の子学園を、一郎を立ち直らせてくれる施設と判断したことも一因であった。

6  一郎と同級生であった丁原春夫も、五月一日、私塾である喝破道場に入ったが、丙川中学校では、平成二年夏にも一名が喝破道場に入っており、一郎を含め、三名の生徒が愛護センターの門田指導主事の紹介により、私塾に入った。

丁原春夫に関しては、同人の母である丁原松子が三月末に、吉川教諭から電話で愛護センターに相談に赴くように言われ、愛護センターを訪れたところ、門田指導主事から、環境を変えてやるのが大事ではないかとして風の子学園を含む私塾を紹介され、それが機縁となって、喝破道場に入ったのであるが、同道場に入る際には、門田指導主事、吉川教諭が付き添った。

二  右認定事実からすると、原告太郎は、一郎の生活態度、その将来を憂慮し、自ら風の子学園を見学し、一郎の立ち直りのために、費用を負担して一郎を同学園に入園させたことになる。

もっとも、一郎に風の子学園への入園を持ち出したのは吉川教諭であり、門田指導主事は原告太郎に同学園について好意的な説明をし、これが原告らが一郎を風の子学園に入園させた大きな動機になっており、一郎の風の子学園への入園は、非行グループと離れることになるので、門田指導主事らにおいて、内々には望んだところでもある(この点は、原告太郎においても同様であったといえる。)。

また、一郎の入園期間中、学校への出席扱いにしたのも、風の子学園を中学生の立ち直りのための施設と是認したからだといえ、さらに、後記のとおり、被告乙山は、風の子学園入園中の一郎の日記、写真等を、原告らのみならず、愛護センター、丙川中学校にも送付している。

三  しかし、右に説示したとおり、一郎の入園を決定したのは、原告らであり、一郎入園後、同原告は、後記のとおり、原告らが一郎を風の子学園に預けたことを前提として、門田指導主事、吉川教諭に相談を持ちかけているのである。

坂口校長、門田指導主事、吉川教諭の先のような対応の当否、法的な問題点については検討を要するとしても、これら態度をもって、学校と被告乙山との間に委託契約関係があったとか、この入園が「家庭謹慎」「校外学習」と同じく、教育的懲戒措置の一つとしてなされたと評価される事情とはならない。なお、被告乙山の愛護センター等に対する一郎の日記等の送付も、同被告が自己の教育効果を誇示しただけのことというほかない。

よって、被告乙山が国家賠償法上の公務員に該当し、同被告が「公権力を行使した」ことを前提とする原告らの被告姫路市に対する請求は失当である。

(請求原因5(二)の主張について)

一  公立中学校の教師らに生徒の安全に配慮すべき義務があることは当事者間に争いがなく、右義務は、市町村(特別区を含む)の教育委員会による就学校指定(学校教育法施行令五条一項、二項)から生ずる公法上の在学関係に根拠を有し、学校設置者は、右在学関係により、当該生徒を包括的かつ継続的な支配監督下において教育を施す立場に立つことから、それにより生じる一切の危険から生徒を保護すべき責務を負うと考えられ、したがって、安全配慮義務は、原則として、学校教育の場及びこれと密接に関連する生活場面においてのみ生ずるとされている。

本件は、親権者が委託した学校外の施設において、当該施設の主宰者が委託された生徒を監禁して死亡させた事案であって、学校教育と密接に関連する生活場面での事故とみることはできないことは明らかで、一郎の死亡が、学校教育と密接に関連する生活場面での事故であるとの原告らの主張は採用できない。

二  もっとも、教師あるいは教育関係者が、生徒の教育上有益なものとして私塾を紹介し、そこへの入所を容認する以上、教師らが、その施設の実態、そこでの生徒の生活状況について調査あるいは確認等の副次的な配慮を要することは当然の理であり、紹介、入所の容認についての関与の態様によって、右調査、確認等の配慮義務に軽重があるのも当然のことと言えよう。

風の子学園は、原告らの主張するとおり、園長である被告乙山の資質・能力の人的な面、施設等の物的な面の双方において、教育上有益なものといえないばかりか、園生に対して極めて危険な施設だったのであり、一郎入園後において、そのことを窺わせる情報も教育関係者にもたらされたのである。

しかるに、門田指導主事は、原告太郎に、被告乙山及び風の子学園について前記のとおり好意的な説明をし、証人門田文男、同吉川善廣、同坂口光俊が供述するところによれば、同人らは一郎の死亡を知るまで、風の子学園の実態にはまったく気付かず、一郎の在園を容認していたのである。

門田指導主事の被告乙山に対するこのような誤った評価、丙川中学校の教育関係者の一郎在園の容認等は、右副次的配慮義務上、当然、検討されるべきことである。

三  そこで、まず、風の子学園の実態について見たうえ、右副次的配慮義務の内容及び懈怠の有無について検討を進めることとする。

争いのない事実及び《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

1  被告乙山は、戦時中は海軍に在籍、戦後に造船所に就職、そこを昭和五七年に定年退職した者で、青少年教育や矯正関係について特別の経験はないが、かねてから青少年の指導・育成に関心を持ち、昭和三九年代から、海軍時代に習得したカッターの漕法、手旗信号等の海洋訓練の野外活動塾を始め、スポーツ少年団を開設したりしていた。

定年退職後、被告乙山は、これまでの経験をもとに、青少年の健全育成全般についての講演活動、臨海学校の開設等の活動を始めたところ、登校拒否児童、非行少年等の父母から相談を受けたことから、有料で非行防止の活動をすることを計画し、昭和六〇年一一月、広島県佐伯郡大柿町大字飛渡瀬の中学校跡地に「ふるさと自然の家」を開設した。

しかし、右施設において、被告乙山は、園生らに、三日以上食事を与えなかったり、手錠を使用したりしたため、江田島警察署の指導を受け、園生もいなくなり、昭和六三年三月ころには施設を賃借していた大柿町から立ち退き要求を受け、平成元年三月ころ、右施設を閉鎖したが、一〇〇〇万円以上の負債が残ることとなった。

2  被告乙山は、その後、三〇名位の園生の受け入れを予定して、施設の購入代金、運転資金として金融機関から四千数百万円を借受け、広島県三原市鷺浦町須波字西之谷(小佐木島)の海水浴場跡地を約一五〇〇万円で買い取り、そこに平成元年一一月一日付けで風の子学園を開設した。

風の子学園開設時における被告乙山の負債総額は明確ではないが、金融機関、個人、金融業者から借り入れていて、その総額六四〇〇万円余で、本件事件があった平成三年七月末当時には、金融機関等(いわゆるサラ金業者、信販会社からの分も含む)からの借入金総額八七〇〇万円と買掛金等五〇〇万円の総額九二〇〇万円となっており、毎月の返済額として三六万円を要し、風の子学園の経費、生活費を合わせると少なくとも、毎月五〇万円余を必要としていた。

3  「風の子学園」のパンフレットには、「情緒不安定(登校拒否、問題行動等)の児童、生徒を預かり、自然に恵まれた離島の素朴な施設で、いろんな体験学習を通じて心を開き、自分自身に気づかせる気力、体力の養成を目的とした」「身心の健康道場的な療育を目的とする民間の個人施設で」、「昭和五九年以来、平成二年八月まで入園した児童、生徒数は六八人で、このうち正常復帰した数は約八〇パーセント」であり、募集人数は若干名(収容定員は一〇名)との記載がある。

しかし、右学園の物的施設は、「請求原因5項(二)<1>[1]」において原告らが主張しているとおり、水道はなく、園生の宿泊部屋は裸電球で、暖房はなく、便所は宿舎棟から離れたところの一か所のみであった。

被告乙山が謳い文句としている「体験療育」の実態は、粗食主義を標榜するも、思いついて、平成二年四月ころからその旨をモットーとするようになったもので、栄養的な検討を加えたことはなく、他方、来客には特別料理を提供し、風の子学園の従業員が子供たちの栄養を心配して食料を提供するのは黙認していた(なお、被告乙山は、遅くとも平成三年六月からは、園生に、パンの切れ端や食パンの耳を食べさせていた。)。

また、被告乙山は、断食、絶食については自分の経験で判断していただけで、内観法についてもパンフレットで知ったぐらいで特に研究したこともないのに、園生に自分を振り返らせると称して数日にわたって、場合によっては手錠をかけたり、鎖をつけたりして倉庫に入れてまったく食べものを与えずに放置しており、その教育方法は「到底常識で考えがたいもの」であったほか、懲罰として、陰湿な暴力を振るったり、手錠あるいは足に鎖をつけて小屋に監禁し、傷害を負わせていた。

すなわち、被告乙山は、平成二年七月三〇日には、預かった園生を手錠をかけて小屋に閉じこめ、さらに、同月三一日から翌八月八日まで両手錠及び足に鎖をつけて小屋に監禁し、入院加療四三日間を要する脱水症、急性腎不全、肺水腫を負わせており、平成二年一二月、同三年一月には、預かっていた幼児の夜尿症に手を焼いたあげく、同人の臀部、陰茎部に蚊取り線香を押しつけ火傷を負わせていた。

三  右のとおり、風の子学園の前身である「ふるさと自然の家」及び「風の子学園」における被告乙山の園生に対する教育方法は、食事を与えなかったり、手錠をかけて拘束したり、残虐な体罰も辞さないというもので、現に、園生に傷害を負わせていたのである。

また、風の子学園は、子供が長期間宿泊するのに望ましい設備を備えておらず、他方、被告乙山は、風の子学園開設に際して多額の負債を抱え、その後、その負債は増大していた。

被告乙山は、入園する子供達は一筋縄ではいかないので、右のような措置はやむを得ないとの教育方針をとっていたが、そのような教育方針を隠蔽して、前記のとおり自己の教育方法を誇示したパンフレットを作成して園生を募集していたのである。

被告乙山の活動は、平成二年一二月現在において、新聞に、好意的に取り上げられていた。すなわち、「ふるさと自然の家」に関して昭和六一年一一月二日付全国紙で「自然の中で立ち直った」「登校拒否の8割復帰」との見出しで紹介され、同施設が閉鎖された後、風の子学園について、平成二年四月一八日付地方紙で、「自然の中で情緒障害いやす」との見出しで、平成二年一二月二五日付全国紙で「心の病い8割立ち直る」の見出しで大きく紹介された。

四  風の子学園の実態は、前記のとおりで、一郎入園前において、被告乙山の教育方針として陰湿で残酷な体罰がなされていて、体罰の態様からすると園生が死に至る可能性も否定できないものだったのである。そして、前掲各証拠によれば、この残虐な体罰は、一郎入園中、一六才の少女を僅かの水を与えただけで一〇日間、一四才の少女をまったく飲食物を与えず四日間、それぞれコンテナ中に監禁するなど、一郎に対してのみならず、他の園生にもなされていた。

そのほか、園生が残した手記には、被告乙山が家に逃げ帰ろうとした園生を捕まえて、顔に五発位びんたを張り、手足を縛って倉庫に三日くらい監禁して食事を与えなかったとか、動作が鈍いと言って、園生を蹴り上げたとか、園生には、粗食主義を求めながら、自分は昼間から酒を飲んでいたとか、病気の時に看病してくれなかったとかの記載がある。手記のこれら記載に対して、被告乙山は、好きでびんたを張ったわけではないとか、蹴ったのは覚えてないとか、できるだけの看病はしたとか、昼間から酒を飲むについては園生の了解を得たとか、身勝手で、必ずしも信用できない言い訳をしている。

風の子学園の実態は、右のようなものであったのに、門田指導主事は、原告太郎に同学園を紹介し、愛護センター及び丙川中学校の教育関係者は、立ち直りに役立つとの判断のもとに、一郎の入所を容認したのであるが、教育関係者のこのような態度について、一郎の風の子学園入園前と入園後に分けて、前記配慮義務の観点から検討する。

1  《証拠略》によれば、門田指導主事が、被告乙山及び風の子学園の存在を知り、同被告を教育者として、原告太郎に推奨するに至った経緯は、次のとおりである。

(一) 被告乙山は、平成二年五月ころから、姫路市の教育委員会、愛護センター等教育機関と接触を持つようになり、同年一一月一〇日には、姫路市教育委員会の後援で姫路市内で「情緒障害児の実践療育発表会」という講演会を開催し(甲第一〇号証の新聞、同第三三号証の被告乙山の姫路市教育委員会宛手紙)、同年一二月二六日に、当時、風の子学園職員であった戊田竹夫とともに姫路市に赴き、児童相談所、教育委員会、愛護センター等を、手土産に、もみじ饅頭、酒券を持参して訪れた。

愛護センターでは、所長と門田指導主事が対応したが、被告乙山は、風の子学園のパンフレット、前記新聞記事を示し、動物が子供の心を開かせる等と自己の教育理念を披瀝するとともに、風の子学園の宣伝をした。

門田指導主事は、右新聞記事をもって、風の子学園は社会的に認知された施設で、被告乙山がその宣伝どおりに教育理念を実践し、非行少年の立ち直りに成果を挙げていると受け取り、その業績に感嘆した。

(二) 門田指導主事は、嘱託職員の柴田岩男とともに公務として風の子学園を視察することとし、あらかじめ被告乙山に連絡したうえ、平成三年二月二〇日、風の子学園を訪れた。

門田指導主事らは、当日、午前九時過ぎに風の子学園に到着し、食堂兼事務所で、被告乙山から、二時間程度、教育方針、園生の日課、人数、職員の数、費用、卒園生の具体例等、風の子学園では物を大切にすることを重視しており、園生には三、四食を断食させて食べ物の有り難みを分からせるとか、園内には水道はなく、水はフェリー乗り場(ゆっくり歩いて一〇分程度の距離)まで園生に汲みに行かせているとか、園内には自分を振り返らせる部屋がある等の説明を聞いた。

その後、門田指導主事らは、出会った高校生の園生に声をかけ、風の子学園職員の戊田竹夫の案内で施設を見学し、ミカン畑、ミニ牧場、子供達の宿泊するバンガロー等を一通り見たが、部屋の内部を詳しく観察したり、便所や風呂に注目することはしなかった。

後に小屋等に代わって監禁に用いられたコンテナは、事務所兼食堂の南側に設置され、飼料倉庫として使用されていたが、門田指導主事らは、その前を通ったものの、その存在を意識しなかった。

(三) 門田指導主事らの視察は午後〇時過ぎころ終わったところ、被告乙山は、門田指導主事らとともに風の子学園を出て、同人らを尾道市の料亭に案内して同人らをもてなし、視察の翌日、門田指導主事及び柴田岩男の自宅へ生かきを宅配便で送った。門田指導主事らは、これに対して礼の手紙を出したが、そこには、被告乙山の志にうたれ、生き方に感動した旨記載されている。

2  右事実からすると、門田指導主事をはじめ愛護センターの関係者は、前記新聞記事等をもって、風の子学園は社会的に認知されたものと即断し、被告乙山の美化された教育理念あるいはその実践効果の誇大な宣伝にまったく疑いを抱かなかったのである。

しかし、門田指導主事ら愛護センター関係者は、非行生徒、あるいは問題を抱えた少年の相談、補導活動に従事していたのであるから、非行生徒の対応に苦慮している自らの体験を虚心に省みて、「登校拒否の8割復帰」、「心の病い8割立ち直る」といった新聞の見出しに疑いを持ち、あるいは被告乙山が述べ立てる教育理念、指導方法について、その内容を具体的に問い質せば、右新聞記事、被告乙山の述べ立てることに誇大な宣伝部分があり、相当割り引いて聞かねばならないことは容易に見抜け、同被告の話に疑念を抱いたはずである(甲第六四号証の喝破道場の野田大灯住職からの「事情聴取書」には、同住職が被告乙山に会って、その人格について疑念を抱いた旨記載してある。本件事件発生後のものであって、その内容をそのまま信じることはできないが、同住職は「新聞報道で八割の成果があった」ことにびっくりもし、興味をもって風の子学園を訪ねているのであって、少なくとも、成果に関しての新聞の記事は、問題少年の教育に関わる者が当然抱く疑問であろう。)。

被告乙山が教育機関に手土産を持参し、視察に訪れた教育関係者を直ちに料亭に招き、その直後に物を送るなど、接待まがいのことをしていることについても疑問を抱いて当然であった。

さらに、《証拠略》によれば、一郎入園直後の五月一〇日に、被告乙山は、原告太郎に八〇万円の借り入れを申入れており、そのことは、原告太郎から吉川教諭に、同教諭から、門田指導主事に伝えられており、同指導主事らは、被告乙山が金銭的に余裕がなかったことは知り得たのである。

3  確かに、これら各事実が意味するところは、事後になって判然としたものである。しかし、愛護センター関係者が、教育者としての自己の経験に照らし、被告乙山の言動に注意を払い、同被告の教育についての経験、風の子学園の資産状態、人的問題(問題少年を預かるのであるから、人格見識において卓抜した人物あるいは体力気力のある人間が数名で対応する必要があるところ、門田指導主事は、園生、職員数について質問はしたと言うものの、そのような観点から、職員の経験、前記の風の子学園のパンフレットにある盛り沢山のカリキュラムをどのようにして実施していたのか、あるいは施設の維持について財産的裏付け等について注意を払った様子はない。)、「体験療育」の実態等を問い質し、そのことを踏まえて風の子学園の施設を観察すれば、被告乙山の並べ立てる美辞麗句にもかかわらず、同学園が極めてお粗末な施設で、被告乙山の性格及びその活動のいかがわしさに気付く機会は十分にあったと考えられる。

4  付言すれば、門田指導主事は、風の子学園を視察する以前に喝破道場も視察しており、同道場と対比して風の子学園の教育施設、人的構成について、検討することはできたのである。

結局、被告乙山の誇大な宣伝を鵜呑みにし、門田指導主事が、吉川教諭に風の子学園を誉め、原告太郎に同学園への入所を紹介したのは安易に過ぎたと言わざるを得ない。

五  次に、原告ら及び丙川中学校の教育関係者らの一郎入園後の対処について検討する。

1  《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

(一) 被告乙山は、一郎が入園して半月余り経った五月二〇日ころ、一郎の手記や感想文、写真(検乙第一号証)を原告ら宅のほか、愛護センター及び丙川中学校へ送付した。この手記や感想文には、一郎が入園初日に馬の世話をせず電話を勝手に使ったため被告乙山に叱られ、倉庫のような暗い部屋に一〇日間ほど入れられ、夜はとても寒く昼は蒸し暑く、食事も抜かれてつらかったこと、入所当時の面白半分という気が消え、真面目に暮らして早く帰れるよう努力するつもりであること等が記載されている。門田指導主事や吉川教諭は、暗い部屋に入ったり断食したりすることは教育手段であると考え、文章がきちんと書かれており、一郎が規則正しい生活を身につけつつあると感じた。原告も、この手記などを見て、一郎が立ち直りつつあると喜んだ。

(二) 一郎入園当日、原告太郎は、被告乙山から一か月は連絡をとらないで貰いたいと言われたので、六月一日になって風の子学園を訪問したところ、一郎が素直に話をし、原告らの分の食器も洗うなど生活態度が良くなっているとの印象を持ち、六月三日、原告ら宅を訪れた吉川教諭に、これらのことを報告した。

ところが、同月一五日、被告乙山から一郎が逃亡を企てたとの連絡があり、二〇日、原告太郎は、吉川教諭、一郎の学年主任教諭と共に風の子学園を訪問したところ、被告乙山から、一郎が逃走を企て同被告に暴力を振ったため、内観治療中で、面会させられないと説明され、原告太郎は、どこかで治療中ならば仕方がないと考え、強いて面会を求めようとはせず、吉川教諭らも同様の態度であった。

(三) 他方、喝破道場の経営者である野田大灯住職は、七月七日に風の子学園を退出して喝破道場に入った女生徒(この女生徒は、六月に風の子学園に入園したものの、被告乙山の指導方法に不審を抱き、風の子学園を退出して喝破道場に入ったのである。)から、一郎の様子が尋常ではないので早く助けてやって欲しいと聞かされ、同月八日、丁原春夫(一郎の同級生で、喝破道場に入っていた。)の母丁原松子に、風の子学園は良くないので一刻も早く一郎を出すようにと電話した。

丁原松子は、同日、吉川教諭宅に電話でこのことを伝え、他方、丁原春夫の父も、同日の夜、原告太郎にこのことを知らせた。原告太郎は、直ちに、吉川教諭に電話をし、喝破道場に問い合わせて欲しいと依頼した。

吉川教諭は、同月九日に喝破道場に電話したが、野田大灯は不在で、女性職員から、確かに野田大灯が、風の子学園についてそのようなことを言っていたとのことを聞かされた。しかし、それ以上の調査はせず、二、三日後、原告太郎に、風の子学園のやり方は好ましくないということだが、女の子が言ったことで具体的には分からないとのみ伝え、この報告を受けた原告太郎は、同教諭に、同月一三日、一四日に風の子学園に親子体験入園をする予定なので、自分の目で確かめてくるとの話をした。

なお、原告らは、甲第六七号証の吉川教諭の司法警察員に対する供述調書において、同教諭が、喝破道場から、「風の子学園が、<1>力で押さえつける指導をしている、<2>職員が少ないので目のゆきとどかないところがある、<3>コンテナで内観する際、一〇日以上のときもあり、鎖につながれることもある」との情報を得た旨供述をしていると主張する。しかし、同供述調書は、同教諭が喝破道場から右のような内容の情報があったことを個別的、具体的に確認した内容とはなっておらず、原告らのこのような主張は採用できない。野田大灯の丁原松子に対する電話は、一郎について具体的な状況を伝えたものではなかったし、原告太郎でさえ、七月二八日まで、一郎がコンテナに監禁されていることをはっきりとは知らなかったのであって、坂口校長、門田指導主事、吉川教諭が一郎死亡まで同人がコンテナに監禁されていることを知らなかったことは明らかである。

(四) 原告太郎は、七月一三日と一四日に風の子学園に体験入園したが、この時、一郎から、かびのはえたパンを与えられたとか、長期間手足を縛られて飼料小屋に閉じこめられたとか、被告乙山は昼間から酒を飲んでいるとかの不満を訴えられた。

原告太郎は、これを聞いて、同月二八日に一郎を連れて帰ることを考え、そのことを一郎に約束したところ、被告乙山がそのことを知り、同被告と激しい口論になった。

原告太郎は、吉川教諭には同月一四日電話で、門田指導主事には翌日愛護センターで、右の事情を報告をしたが、その内容は、主に、乗馬などパンフレットに載っているような治療法は行われておらず、被告乙山には嘘が多くて信用できないこと、七月二八日には、一郎を退園させたいということであり、そして、被告乙山が訪ねてきても会わないで貰いたい旨依頼した。

なお、吉川教諭は、いずれかの機会に、喝破道場からの前記情報及び原告太郎の右報告を坂口校長に伝えたが、坂口校長は、これらについてさしたる関心を持たなかった(同人は、その証人尋問中で、原告太郎から「(被告乙山に)会わないで貰いたい」旨の明確な依頼があったとは聞いておらず、「食事をして欲しくない」との依頼であったとの趣旨不明の供述をしている。)。

(五) 被告乙山は、同月一九日、姫路市を訪れ、門田指導主事と面会したが、門田指導主事は、被告乙山を丙川中学校に同行し、そこで、門田指導主事、坂口校長、吉川教諭は、被告乙山から現状報告等を受けたが(すなわち、坂口校長、吉川教諭は、原告太郎から、被告乙山と会って貰いたくないと依頼されながら、被告乙山と面談したのである。)、被告乙山の報告は、一郎の現状は不安で夏休み前の退園は望ましくないのに、原告太郎が一郎を退園させようとしているというものであった。

なお、この話し合い終了後、被告乙山は、吉川教諭にビール券を渡し、門田指導主事をその夜、炉端焼き、スナックでもてなした。

坂口校長、吉川教諭とも、夏休み前の一郎の退園は望ましくないとの考えであったから、同人らは、同月二一日に原告ら宅を訪問し、夏休み終了まで一郎を在園させるよう説得したが(その際、坂口校長らは、被告乙山と面談して報告を受けたことを原告太郎に話すことはしなかった)、原告太郎は、退園を延期することに応ぜず、そして、同月二二日に愛護センターの門田指導主事を訪ね、同月二八日に一郎を連れて帰る旨伝えた。他方、同月二三日ころ、坂口校長は、被告乙山に原告ら宅訪問の結果を伝えた。

坂口校長、門田指導主事、吉川教諭は、その証人尋問において、被告乙山から、一郎の在園を原告太郎に説得して貰いたいと頼まれたことはないと供述するが、

右経過に鑑み、そのような依頼があったことは明らかで、甲第六八号証の門田指導主事の供述調書において、同人は明確ではないがそのことを認めている。

(六) 原告太郎が、同月二七日、被告乙山に、確認の電話をしたところ、同被告は退園には、警察官や学校の先生の同行を求める旨を要求した。

原告太郎は、そのことを吉川教諭に報告し、吉川教諭は、直ちに坂口校長に相談したが、坂口校長は、教師が出る幕ではない、親が最高の保証人だから親が園長と十分話をして退園させるようにとの意見だったので、原告太郎にその旨返事をした。

(七) 原告らは、同月二八日に一郎を退園させるために風の子学園に赴いたが被告乙山から退園を拒絶され、一郎が炎天下のコンテナに閉じこめられていることに気付いた後、一郎を帰す帰さないで、原告太郎は、同被告と暴力沙汰までなりそうになったが、同被告が一郎の身の安全を保証したので、身元引受人や誓約書が必要であるとの同被告の要求に応じて、退園を延期し、そのまま帰宅した。

原告太郎は、同日、門田指導主事に電話をしてこれを報告し、さらに翌日愛護センターを訪ね、門田指導主事と話をした。

(八) 七月二八日午後八時ころ、一郎が施錠されたコンテナ内で、脱水状態に基づく熱射病で死亡したことは、前記のとおりで、門田指導主事らは、その報告を受けるまで、一郎の身に危険が迫っていることをまったく考えていなかった。

2  右事実からすると、愛護センター、丙川中学校の教育関係者は、風の子学園を立ち直りに有用だと考えたと言いながら(七月初めころ、坂口校長が電話で一度一郎と話をしたことがあったようではあるが)、一郎入園後、一度も同人と面会したことはなく、他方、喝破道場から風の子学園には問題があるとの情報提供があり、また、原告太郎から、風の子学園ではパンフレットにあるような指導は行われていないとか、被告乙山は信用できないと聞かされ、さらに、被告乙山が接待まがいのことをしているにもかかわらず、一郎死亡に至るまで、風の子学園について、被告乙山の誇大な宣伝をまったく疑わなかったのである。

坂口校長に至っては、風の子学園を現実に見たこともなく、その実態について詳細を知らないにも関わらず、七月一九日に被告乙山が丙川中学校を訪ねた際、吉川教諭は被告乙山と会うことに消極的であったにもかかわらず、生徒が世話になっているからと、被告乙山と積極的に面談したのである。

少数ではあっても問題生徒によって、学校運営に多大な負担を生じることは容易に推測でき、その深刻さについては知るところではないので、問題生徒を学校から隔離しようとする学校側の態度を軽々に非難できないであろう。しかし、そうだとしても、愛護センター、丙川中学校の教育関係者の右のような態度は、一郎さえ学校から隔離されておれば、それで良しとしたと言われても仕方がないものといえる。

六  以上の一郎入園前、入園後の事情を踏まえて、愛護センター、丙川中学校の教育関係者の配慮義務違反について検討するに、被告姫路市は、門田指導主事、坂口校長、吉川教諭は、一郎の風の子学園入園について、原告らに依頼された範囲(相談、電話の取り次ぎ、学園への同行)で接点を持ったに過ぎないと主張し、また、同人らも、その証言中で、一郎、丁原春夫らを含め、私塾に入るかどうかを最終的に決定するのは両親であるし、そのことについては充分説明しており、自分たちは、私塾を紹介し、両親の決定をやむを得ないものとして了承しただけであると供述する。

しかし、入塾を最終的に決定するのが両親であることは当然のことであって、どのような紹介方法であったかが問題となるところ、愛護センターの職員は私塾を視察したうえで紹介をしており、丁原春夫の母である丁原松子は、吉川教諭の指示を受けて愛護センターを訪れ、門田指導主事から喝破道場を紹介されたのである、原告太郎についても、それまで存在をまったく知らなかった風の子学園を紹介されたのである。そして、紹介の際、門田指導主事は「環境を変えてやるのが大事である」とか「今まで私塾に行った子は立ち直りが早い」との趣旨の説明をし、春夫が喝破道場に入る際には、門田指導主事、吉川教諭が付き添ったのである。

また、坂口校長、吉川教諭は、被告乙山から、原告太郎が一郎の退園を予定していると聞くや、被告乙山の要望に沿って、退園の延期を原告太郎に説得している。

結局、愛護センター、丙川中学校の教育関係者は、問題のある少年を学校から切り離すために、私塾を有用なものと認め、そこへの入所を勧め、入所するや、できるだけそこに留まるように、保護者等に働きかけたのであって、そのような態度をとる以上、紹介し、入塾を容認した私塾の調査義務、あるいはそこでの生徒の生活についての確認義務が軽くないことは明らかである。

七  前記のとおり愛護センター、丙川中学校の教育関係者において、いま少し、被告乙山の実際の行動に注意を向けておれば、同被告の誇示する教育方法、ひいては、その人格について疑問を抱き、そこからさらに調査をすすめれば、風の子学園の施設がお粗末なものであり、被告乙山の誇示する体験療育が死に至る危険もあることが判明したはずで、しかも、その調査は充分可能だったのである。

また、一郎入園後、風の子学園が私塾として適当でない予兆は、六月二〇日、吉川教諭らが風の子学園を訪れたときに、被告乙山が一郎に会わそうとしなかったこと、喝破道場からの情報、原告太郎からの報告と、次々あったにもかかわらず、愛護センター、丙川中学校の教育関係者は、気にとめず、調査もしなかったのであり、そして、原告太郎から被告乙山に会わないで貰いたいと依頼されながら、同被告と会って、しかも、そのことを隠したまま、原告太郎に一郎の退園の延期を説得したのである。

結局、門田指導主事、坂口校長、吉川教諭ら教育関係者は、充分な調査を怠って一郎の立ち直りに有用なものとして原告太郎に風の子学園を紹介し、学校から切り離すことを容認しておきながら、その後の入園した生徒の安全について問題があるとの情報、予兆をまったく看過した点において、配慮義務の懈怠があったと認められる。

八  もっとも、私塾での子供の安全は、当然、私塾に子供を委託した親権者が中心となって配慮するべきであり、さらに、原告太郎は風の子学園を訪れ、被告乙山と面談した上、同被告に一郎を委託したのである。また、学校関係者らが受領したのと同じ一郎の手記や感想文の送付を受けていた。さらに、丁原春夫の父から一郎を早く風の子学園から出した方がよいとの連絡を受け、七月一三日に風の子学園で宿泊した際に一郎から飼料小屋に足かせをされて閉じこめられたと聞かされたのに、そのことを門田指導主事あるいは吉川教諭に強く訴えた様子もない。

一郎死亡当日についても、原告らは、一郎と言葉を交わしており、周囲に海水浴客もいたのであるから、中の状況を一郎本人に確かめ、海水浴客や警察官に助力を求めていれば、最悪の事態は防げたのであって、原告らにおいても一郎の死の危険性を予期せず、被告乙山の強硬な態度に折れて一旦帰宅したのである。

生活指導を委託した私塾にあっては、体罰を含んだ厳しい躾がなされることは、当然に予想されるところで、愛護センター、丙川中学校の坂口校長をはじめ教育関係者は当然被告乙山がそのような厳しい教育を行っているものと考えていたから、原告らから一郎の身の危険についてよほど切実な訴えがない限り、ことの重大性を認識できなかった面はある。

そして、五月二〇日ころ、被告乙山から愛護センター、丙川中学校に送付された一郎の手記には、一郎が飼料小屋あるいは倉庫のような暗い部屋に何日間か閉じこめられたことが記載してあったが、原告太郎自身も、そのことを問題としなかったのであり、被告乙山が園生の教育方法として内観を口にしていたことから、愛護センター、丙川中学校の教育関係者は、被告乙山が、園生が指導に反した場合、どこかに閉じこめて自分を見つめさせるという教育方法をとっていると考えていて、死亡当日まで、同被告が一郎の体調にも、生命にもまったく配慮せず、炎天下のコンテナの内に閉じこめて放置するとはまったく思っていなかったのである。

九  右の事情は、愛護センター、丙川中学校の教育関係者に配慮義務の存在、あるいは配慮義務の懈怠と一郎の虐待による死亡との因果関係の存在に疑問を投げかけるものである。

しかし、原告太郎が被告乙山に危機感を持たなかったり、被告乙山の教育方法に疑問を持った後にも、愛護センター、丙川中学の教育関係者にそのことを強く訴えなかったのは、私塾や愛護センター、丙川中学の教育関係者に依存する姿勢があったこともあるが、それに加えて、これら教育関係者が風の子学園を高く評価したこと、そして、原告太郎が被告乙山に疑問を持つようになっても、愛護センター、これら教育関係者が同被告に対する信頼を変えなかったこともある。

すなわち、愛護センター、丙川中学の教育関係者は、風の子学園での教育が死の可能性のある虐待だったという実態を看過して、原告太郎に、風の子学園を誉めて入園を勧め、七月八日以降、原告太郎において、風の子学園の悪評を知ったり、虐待されているとのことを一郎から聞かされて、愛護センター、丙川中学の教育関係者らに調査依頼、報告をしたのに、これら教育関係者は、調査依頼、報告を無視して、被告乙山に対する評価を変えず、同人の接待まがいの行為に違和感を覚えなかったばかりか、被告乙山に会ったことを隠して、原告太郎に、一郎の退園延期を説得し、坂口校長においては、その結果を電話で被告乙山に伝えているのである。

愛護センター、丙川中学の教育関係者が原告太郎の調査依頼、報告に真摯に耳を傾けておれば、風の子学園の実態が早期に判明して、一郎の退園が実現したかもしれないのに、これら教育関係者は、右のとおり、原告太郎よりも、被告乙山を信頼しているとしか思えない態度で、原告太郎の調査依頼、報告を無視したのである。

風の子学園での被告乙山の教育方針が、園生の死をも招来しかねない危険なものであったのに、愛護センター、丙川中学校の教育関係者において、これを看過したばかりか、原告太郎の調査依頼、報告を無視したこのような重大な配慮義務の懈怠があったことからすると、これら義務懈怠と一郎の熱射病による死亡との間に因果関係を認めざるを得ず、国家賠償法一条により、被告姫路市は、一郎が受けた虐待及び死亡の結果につき賠償する義務を負うと解される。

もっとも、家庭で行われるべき生活指導の一方法として私塾の力を借りるのであるから、原告ら自身も風の子学園での具体的処遇に注意を払い、不審な情報を得た後は、学校関係者らに報告するだけではなく積極的に調査をし、退園のためにより実効的な行動をすべきことについては、損害賠償の算定に当たって考慮せざるを得ない。

(被告姫路市の賠償責任額)

一  右の次第で、被告姫路市の教育関係者の配慮義務違反と一郎が風の子学園に入園して以来、監禁されるなどの虐待行為によって受けた苦痛、その結果としての死亡との間の因果関係は認められるので、被告姫路市には、一郎死亡につき、損害賠償責任がある。他方、原告らにおいても、今少し切実に、一郎の様子について愛護センター、丙川中学校の教育関係者に訴えておれば、違った対処があったと考えられること、一郎が施錠されたコンテナに監禁されていることを知った後も、一郎の死の危険性を予期しなかったことに鑑みると、原告らの損害賠償は、過失相殺の法理に基き制限するのを相当とする。

二  そこで、被告姫路市に対する請求については、一郎死亡による逸失利益に関してはその二割にあたる分の限度で(各原告につき二三八万八五七七円となる)、慰藉料に関しては、一郎本人分の相続による承継分及び原告ら個人の合計として原告らそれぞれについて各三〇〇万円が相当で、弁護士費用は、本件事案の内容及び認容額に照らし、各原告につき七〇万円をもって相当とし、その合計は、各原告につき六〇八万八五七七円となる。

第三  結論

原告らの請求は、被告乙山に対し、各原告にそれぞれ三一九四万二八八六円及びこれに対する本件一連の不法行為の最終日である平成三年七月二八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金、被告姫路市に対し、各原告にそれぞれ六〇八万八五七七円及びこれに対する前同日から前同割合による遅延損害金の各支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は失当であるからいずれも棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条を適用し、仮執行宣言については、被告乙山に対する原告勝訴部分に同法一九六条を適用し、その余については相当でないからこれを付さないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岡部崇明 裁判官 黒田 豊 裁判官 森 淳子)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例